朝日新聞社「ネクストリボン がんとの共生社会を目指して」プレゼン(前半)

朝日新聞社「ネクストリボン がんとの共生社会を目指して」プレゼン(前半)

先日、朝日新聞社さんが主催する「ネクストリボン」のイベントに登壇させていただきそちらでお話した、今から約12年前に乳がんが見つかり、治療しながら働くことを通して「がんと一緒に生きる」ということをどのように感じてきたかの非常に個人的な一顛末をテキスト化しておきます。

「松のプレゼン、わかりずれー」
「松の顔が丸すぎて集中できなかったわー」
「松、若年性謳ってるわりに結構年齢いってるじゃん」

という方に対して、わたしなりの誠意です。(わたしの筆致をご存知の方には違和感があるであろう「口語」でUPします。実直プレゼン風)

さて、わたしが乳がんの告知を受けたのは、遅咲きながら29歳でようやく憧れだった雑誌編集者への採用が決まった直後でした。告知を受けるちょうど一年前、28歳のときに3年に及ぶ治療の末に肝臓がんで亡くなった父を見送ったわたしにとって、がんと死のイメージは密接すぎました。驚きと、恐怖と不安で、一つたりとも楽観できる要素がありませんでした。若さゆえの慢心で、がん保険はおろか医療保険にも一切入ってなかった為、自分で治療費を稼ぐ以外に道を思いつきませんでした。

告知直後、すぐに当時の編集長に報告をしました。仮にAさんとします。

さ「Aさん、わたし乳がんでした」

A「わかった。それで、さや香はどうしたいの?」

さ「……」

む。確かに、わたしどうしたいんだろう。

休職することも、仕事を続けるのも自分次第ということですが、告知のショックから抜け出せていないわたしにとってこの取捨選択は非常に難しいものでした。働かないと治療費が稼げない。しかし「働きながらがん治療をしている人」を実際に見たことがなかったので、具体的な治療と仕事の両立イメージを持てない。

しかし自分の意志で働きたいのであれば、自分がどのようにイメージしているのか、具体的に説明し、職場に協力を求めないとなりません。具体的なロールモデルがいない中で、この職場で自分のために自分を活かせるのか考える。それは正直、思った以上に難儀でした。

わたしは「がんを治したい」

その為には「治療がしたい」

治療をするには「お金が必要」

お金を稼ぐには「仕事を続けたい」

そして叶うなら「社会人として成長したい」

そのことを編集長に伝えると

「分かりました。治療をしながら働くということがどういうことなのか、今は私達も分からない。とにかく一緒に頑張ろう!」と言ってくれました。がんの治療をしながら働く部下や同僚をもつことは、社の人たちにとっても初めてのことだったわけです。それはみんなにとって「挑戦」だったことは間違いありません。文字通り一緒に「チャレンジ」してくれた上司や同僚には今でも感謝しています(マジ感謝)。

そしてそれは口で言うほど簡単なことではありませんでした。なのでわたしは、働きながら治療をするうえで4つのマイルールを決めました。これ、本当に個人的な考えです。あくまでも会社勤めしていた、わたしの考えたルールです。

一つは「会議・定例会は欠席しない」(人が集まっているところは出来るだけ顔を出すことでメンバーとしての承認してもらう)

一つは「早退はするけれど遅刻はしない」(日本の組織は終了揃いより開始揃い。最初にメンツがそろっている方がよしとされがち)

一つは「企画書を出すときは、二割増し(10本提出と言われたら12本提出。仕事へのやる気を見せる)」

そして、最後は「自分で見切りをつけること」

今日の体調から考えると定時までいられそうもないな。と思ったら、早い段階で具体的な症状の説明と共に帰宅の許可をもらっていました。

周囲から「大丈夫?」「もう帰ったら?」と声をかけられるまで居残ったり無理をするようでは「病気の人と働く=やっぱりやりにくい」というイメージをつけてしまうと、結果その後自分がやりにくい環境を作ってしまうからです。出来るだけ先回りして、自分から発信することを心がけました。

がんなのにそこまでやらなきゃいけないの?と思われる方もいると思います。周りの無理解が患者の負担を増やすんだと腹立たしく思う方もいらっしゃるかもしれません。

でもわたしは職場に理解を求め、社会の変化を待ってはいられませんでした。とにかく今、働くことが重要ですから、わたしは自分でやる方が早かったというだけです。このおかげでだいぶ仕事がしやすくなりました。